明日がないかもしれない寂寥感
恒例の京都清水寺で発表される今年の一文字は「新」でした。漢字検定協会の不祥事などもありまして存続が危ぶまれたこともありましたが、無事発表に漕ぎ着けたわけですね。おそらくは天下分け目の決戦の衆議院議員選挙で民主党が大勝して政権交代が行われたことを受けての「新」かと思われますが、事業仕訳までは順風満帆だった鳩山政権ですが、思わぬ「生前贈与」疑惑で窮地に追い込まれそうな気配も漂ってきましたから、師走とはいえ世の中慌しいものです。
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多くの人が今年の総決算に奔走している中、来年はどんな年にしようか意欲満々の方々も大勢いらっしゃることでしょう。年の瀬と新年を迎える頃は過去、網膜色素変性症であることを知らず脳梗塞も発症していなかった一昨年までは、クリスマスも紅白歌合戦もなく仕事に明け暮れておりました。現在はやめた煙草は吸いたい放題スパスパやっておりましたし、お酒も好きなだけ飲んでおりました。暗いところが苦手なくせに夜の街は大好きでしたし、夜間のドライブも好きでしたね。さすがに込み入った狭い道や照明が全くない山の中のようなところは行きませんでしたが、普通に夜の運転も楽しんでおりました。
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一年の切り替わり、新しい年号に変わるだけ、また一つ歳を重ねるだけの意味しかなかった年末年始ですが、見えなくなるかもしれない網膜色素変性症を患っていることが分かってから、或いは万一再発すれば間違いなく麻痺や後遺症の重症度が増してしまう脳梗塞を発病してからは、ちょっとばかり意味合いが変わって来たように感じています。極端に言い表せば明日がないかもしれない寂寥感とでもいいましょうか。かなり能天気に構えてる積りですが、それでも稀には見えなくなったら、ということに考えを巡らせてあまり良くないシュミレーションを展開していることもあります。まあ、くよくよ考えたってはじまらないわけですが、人間が感情の動物である以上起伏や好不調はどうしたって付き物ですから悲観的な考えがアタマを占めてしまう日だってあるわけですね。
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網膜色素変性症だから見えるモノ
で、再び話を転じますが、どうも同じ物理的な時間を過ごしてきたとは思えないくらい、一日一日の比重というか密度というべきか、要するに今のこの時をいとおしく思えるようになって来ました。これは決して明日に悲観的であるとか、先行きを悪く考えてのことではなくって、むしろこれまで蔑ろにしてきた、浪費を省みなかった時間への愛着や気付きのような気がしています。何かのドラマでも言っておりましたが、この世で起こることは全て全く無意味なことは何一つないんだそうです。
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とかくマイナスに捉えがちな病苦ですが、網膜色素変性症にしろ脳梗塞にしろ罹患したからこそ見えてくる世界も確実に存在しています。無論、これは単に眼が悪くなったので耳がよく聞こえるようになった、というような補完機能の高まりを言ってるわけじゃありません。どうしてどうして加齢とともに耳の能力、聴き分けるちから、とでもいうのでしょうか、確実に低下している自分にも愕然とさせられること、しばしばです。
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年齢もそうですが、その歳にならないと分からないこと、感じれないこと、その歳だからこそ出来ること、というのもいっぱいあるわけなんですね。同様に不便な障害も障害だからこそ感じることが出来る感性や感覚も当然生まれてくるわけです。その日その日を大切に生きる、などと申しますとどこか宗教くさく感じるかもしれませんが、そういうことから離れてもとても大事なことだと、今更ながら感じ入った今日この頃です。




