社会的に定義されている失明
網膜色素変性症と診断されて不安を抱かない患者さんはいません。
それは疾患が失明する可能性があるためなのと、子供や孫に病気が
遺伝する可能性があるためです。
確固たる治療法がないために症状の進行を食い止めたり、少しでも
改善させる療法も確実ではないため、余計に心配がおおきくなる、
手に余るような疾患ですが、多くの患者さんは僅かでも目に良いこと
はないものかと、あれやこれやと試してまわっているのが実情です。
かくいう私も失明したらそれはその時、と鷹揚に構えてはいたい
のですが、目を閉じてみればすぐに分かるのですが、とてもじゃない
ですが、大丈夫とは思えませんので、良さそうで手頃なものは片っ端
から試してみています。
ちなみにこのブログでもたびたび登場する失明、ということば。
文字通り、明るさを失う状態を示していますが、全盲とはどこが
違うのかご存知でしょうか?
実は失明にもちゃんとした定義がありまして、世間で言うところの
失明と、社会的に定義されている失明では若干とらえ方が異なってい
ます。
街を歩けば社会的弱視だらけ
世間一般では、おそらく失明も全盲もほとんど同じ意味合いのよう
に思われているでしょうが、全盲は全く視力がない状態を指していま
す。
対して失明は社会的盲という定義がありまして、その内盲は、両眼の
視力が0.02未満の場合を示しています。
準盲は、両眼の視力が0.02以上で0.04未満の場合です。
いずれも全盲とは違っていくらかでも視力を有していることが
分かります。
社会的盲とは別個に、両眼の視力が0.04以上で0.3未満であれば、
社会的弱視と呼ばれています。
どの場合の定義でも矯正視力での視力ですが、メガネやコンタクトレ
ンズを装着しても、0.3以下の視力の人なら数多くいますので、
街を歩けばさしずめ社会的弱視だらけ、ということになりますね。
現在では盲を「めくら」と読むことは差別用語として規定されて
いますので、たまにテレビなどで出演者が「めくらめっぽう」など
と思わず発言してしまって、後でお詫びがはいることもありますね。
どこからが差別で、何が区別か、という問題は一言では難しいです
が、とにかく駄目!式の規定にも聊か難点もあるように思います。
言葉は文化ですから、「盲滅法」がたちまち視覚障害者に対する
差別感の表れだとは感じません。
頭で考えた論理的な帰結ですから、常套句を差別用語だと判断する
にはもう少し慎重であって欲しいような気もします。




